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「どうぶつの森」で自由なスローライフを送れるのに現実世界ではそれができない人々,ゲームという桃源郷とその本質,人間の思考を縛る「領域依存」

爆売れする「どうぶつの森

コロナ禍によるStay Home励行で人々がストレス溜めている今日この頃,そのストレスの発散手段であるゲームが爆売れしている.2020年5月7日,任天堂株式会社は決算説明にて,Nintendo Switchの「あつまれ どうぶつの森」が約1200万本売れたことを発表した.海外では”Animal Crossing”と訳されるこのゲームは海外でも流行しており,その勢いはWSJ社が”How ‘Animal Crossing’ Became Coronavirus Therapy”という題の記事をリリースするほどだ.

売り上げの半数以上は北米を中心とした外国で発生している一方,日本国内でも約400万本弱の売り上げが記録されている.これはざっくり計算で1.2億人の日本人口のうちの30人に1人がこのゲームを持っていることになる.国民の30%が高齢者という先進国特有の超高齢人口構成を考慮すると若年層がこのゲームを所持している割合はさらに高いと言える.とんでもない売れ行きだ.

ゲームという箱庭の桃源郷.ゲームとは報酬とプロセスの芸術的組み合わせ

 

どうぶつの森」は自由な世界だ.ゲーム進行の目安となるゴールは与えられるが,それが最終目的とはならない.住民たちとのコミュニケーション,意匠を凝らした村落の開発,動植物の栽培や収集,カブ取引などなんでもありだ.最新作の「あつまれ どうぶつの森」では無人島開発という名目で上述したゲームに実装された各要素をプレイヤーが各々好きに楽しめる.プレイヤーに資本と機会を提供するたぬきのキャラクターとプレイヤー間のやりとりを資本家階級(ブルジョワジー) VS 労働者階級(プロレタリアート)間の闘争として楽しむこともできるし,ゲームで収集した通貨やアイテムを現実世界の通貨と交換するという遊び方もあるらしいぞ!!(おそらくご法度)

ブルジョワジーとプロレタリアート間の階級

Artist not credited. Published by International Pub. Co., Cleveland, Ohio. / Public domain, Link

 

このゲームの良さはゲームの範囲内でプレイヤーは「自由」であり,かつ「プロセスが楽しく設計されて,面倒くさくないこと」,それらを通じて「快適なスローライフを疑似体験できること」だ.立派な家を建てたプレイヤーはその家の経年劣化を気にして壁のペンキをいつ塗り直そうか,屋根はいつ補修しようか,なんて考える必要がない.住民に家を提供する(押し付ける)こともできるが,それは面倒で複雑な契約書を必要とせず,気さくで親密に接してくれる住民との口約束で実行に移すことができる.動植物の栽培や捕獲でがそれらの保護を謳う国際的機関からバッシング受けることもないし,それら動植物は入手過程や事後で死に絶えてしまうということもない.カブ取引で大儲けした時は実効税率がいくらかかり,いつまでに確定申告が必要だと言ったことに悩む必要もない.

ゲームの本質は「報酬とプロセスの組み合わせ」と言える.「敵」っぽい見た目をしたキャラクターが期待通りに敵としてプレイヤーに立ち向かってくる.「攻撃」というアクションでその「敵」に「ダメージ」を与える.この時,ディスプレイと光学技術で作られるアニメーションやスピーカーから発せられる効果音を通じてプレイヤーはそれらの行動のフィードバックを受け取り行動に手応えを感じる.これを繰り返すうちにゲームというファンタジー,仮想世界に没入する.ゲームとはこの報酬とプロセスが絶え間なく,多段的に組み合わされた芸術的作品だ.人間の脳の報酬系にぶっ刺さるこの芸術作品は老若男女に麻薬的快楽を呼び起こす.ゲームは私たちを箱庭で閉じた仮想的桃源郷に連れて行ってくれるのだ.

 

現実世界と仮想世界を区別してしまう人たち.「領域依存」

私たちが暮らす現実世界も報酬とプロセスが組み合わさったゲームと認識することもできる.「どうぶつの森」は現実世界での行動とリンクすることが多いため,それをイメージすることは尚更難しくない.ボタンをポチポチしながら虫取りや魚取り,建築に勤しんだ後に,現実世界でタラの芽を摘んだり,鮎釣りをしたり,築古物件をDIYで再生することを試みてもいいはずだ.プロセスと報酬という二軸で考えると現実世界も仮想的世界も本質的には同じなのである.

青少年の犯罪行動とゲームをリンクして「ゲームと現実を混合してはいけない」と訴える主張をよく見かけるが逆だ.「ゲームと現実は本質的に一緒の部分がある」ということこそ,私たちが持たねばいけない認識ではないだろうか.ドラクエでスライムばかり倒してたらいつまでも魔王に辿り着けないことを通じて私たちは成長には適度なタフさが必要だと学べるし,ゲームをつけっぱなしにしてゲームプレイ時間を蓄積してもそれが魔王を倒すクリア条件にならないことから,報酬がパフォーマンスではなく勤続年数に左右される日本型の人事制度がおかしいことに疑問を持てた方がいい.ゲームはゲーム,現実は現実と線引きしてシナジーを働かせない硬直的な思考ではその両方を楽しくプレイすることはできないだろう.もちろん,あるゲームで銃の乱射が許されるから現実でもそれが許されると言いたいわけではない.「その世界で許される行為/許されない行為は秩序,法律,物理的制約その他もろもろで決まる」ということも現実世界・仮想世界の両者に当てはまるルールの一つだ.

現実世界と仮想世界を区別して考えてしまう理由は仮想世界(ここではゲーム)があまりにも上手くできているせいで,先行きが不透明で報酬とコストが釣り合わない現実世界があまりにも辛く感じられるからだ.会社という組織でどういう頑張りをしたらどういうリターンがあるのか見えない.目の前の英単語,化学式,数式,歴史的出来事や文豪の名前を覚えてもそれが将来の報酬にどう関わるのか想像できないし,推定もできない.目の前にある炭水化物の塊である菓子パンやケーキを我慢することによって得られる長期的な健康面のメリットを想像できない.そしてそれに喰らい付いては目先の幸福という最大瞬間風速だけを求めてしまう(インスリン分泌量の高まりとともに).先々が見えない中,将来の報酬に期待して長期にわたる下積みが求められる現実世界は不確実なことへの耐性がない私たちにとって非常に非常に辛いのだ.

現実世界と仮想世界の違い

コスト(プロセス含む)と報酬という二軸をとると仮想世界も現実世界も同じ空間にプロットできる

本質的に同じ概念なのに場面や分野が変わると別々なものに見えたり,同一視できなくなるという現象は「領域依存」という概念で説明できる.これは「ブラックスワン」というナシーム・ニコラス・タレブの著書で紹介されている概念だ.「領域依存」を示す例として以下のような場面が挙げられる.

  • エレベータを使ってビル上層にあるスポーツジムに移動した後,ウォーキングマシンに乗って汗を流す.

  • 政治的ニュースにヒステリックになりSNSで支離滅裂なことを呟く人が,別の場面では統計データや科学的根拠に基づいていない似非科学ツイートを糾弾する.

  • ホモサピエンスの生命の取り扱いに関するニュースに過剰反応するのに,眼のまえに出された仔牛のステーキは満面の笑みで食す.

  • 普段は自己責任論者を肩書きとしている人が,自分のポジションに危機が訪れたとき,政府機関に真っ先に救済や補償を訴える.

「領域依存」が一切なく,主張や行動に一貫性があるのは美しいことではあるが,その実践はとても難しい.これを書いている私でも「領域依存」が発症する場面はいくらでもあるだろう.スイスの心理学者カール・グスタフユングは「ペルソナ」という概念を提唱した.これは人間の外的側面を表す言葉でありいわば「仮面」だ.私たちはこの「仮面」を”日本人”,”男性”,”○○大学卒業”,”△△会社勤務”,”父親”,”コンサルタント”と言ったように状況に応じて使い分けている.私たち一人一人は一枚岩ではないのだ.

心理学者ユングの肖像

unknown, upload by Adrian Michael / Public domain, Link

 

結論.散歩中の気づき.無意味に意味を求めるのは人間の性かもしれない.

この記事を書こうと思ったきっかけは散歩だった.散歩中に見かけた民家の庭を見て「あーいい庭だ.好きな花や木々,野菜を植えてはその成長を見守る.絶対楽しいし人生の暇つぶしには最高だ.」と思った瞬間に「あれ?これって現実じゃなくても良くない?どうぶつの森スローライフを送ってもいいし,マインクラフトで自給自足サバイバル生活を送ってもいいのでは?」と気づき,ゲームという仮想世界と現実世界を切り離して考えている自分に気がついたからだ.

なぜ私はどうぶつの森やマインクラフトではなく現実世界の庭じゃないとダメと思ったんだろうか?例えばマインクラフトであれば土地の広さや固定資産税,近所の目,物資の調達コストや管理コストを気にすることなくガーデニングができるではないか.あらゆるオブジェクトが立方体で構成されていて景観を損なうという縛りがあるが,縛りがあるという意味では物理法則や自然物の風化を伴う現実世界でも同じなのに.多分そこには「現実の庭」であることに何らかの”無意味な意味”を求めてしまっていたんだろう.立派な庭園があれば人に自慢ができるとかゲームだけしていると時折訪れる物悲しさを感じなくても良いとかそういう意味もあるのかもしれない.あらゆる物事に対して無意味か意味があるか,価値があるかを分けるのはその人の気の持ちよう一つでいくらでも変えられるともいえる.

stacked blocks like Minecraft

Achim Raschka / CC BY-SA

どうぶつの森」を含め,ゲームは間違いなく楽しい.私もゲームをよくするし,時には飲まず食わずで没頭することもある.しかし現実世界をサバイバルしていかなければいけないことを考えると,私たちが取り組むべきなのは現実世界というゲームだろう.報酬とコスト(プロセス,時間,手間,運)が不釣合いで先々が見えないので気が進まないがそれはしょうがない.それが釣り合っていないからこそ,突き抜けた時の楽しさもあるし,思わぬ不運・幸運(ブラックスワン)に巡り合うこともある.先々が見えないことも含め,現実世界というゲームを積極的に楽しんでいきたいものである.

 

参考

 

あつまれ どうぶつの森|オンラインコード版

あつまれ どうぶつの森|オンラインコード版

  • 発売日: 2020/03/19
  • メディア: Software Download
 

 

どうぶつの森は私の周りの人を見渡してみても大流行しているみたいだ.Stay Homeが強いられる中どうぶつの森で学校の卒業式などのイベントを開催したり,同じ政治的思想を持つ人々が集まるコミュニティとしても使われたこともニュースで聞いた.遊び方は無限大だ.

すごくどうでもいい話.「どうぶつの森」とツイッターで検索したら「どうぶつの森が好きな○○さん(タレント名)に似た可愛い女の子と出会える」みたいな出会い系釣りツイートが大量に投稿されていた.SNSでスパムを連投するbotの背後にいる人物もある意味で「どうぶつの森」をダシにして現実世界でゲームをしている.そうとはいえ,そのスパムにその枕詞っているか…?

 

任天堂株式会社 2020年3月期決算説明資料

 

www.wsj.com

 

 

 

 

ブラックスワンは私が最も気に入っている本の一つだ.不確実性に関するこの本の本質的な主張は人間の思考が生むバグに気づきを与え,物事の捉え方をより謙虚なものにしてくれる.
 

ペルソナ (心理学) - Wikipedia

 

 

Minecraft (マインクラフト) - Switch

Minecraft (マインクラフト) - Switch

  • 発売日: 2018/06/21
  • メディア: Video Game
 
 
マインクラフトは今でも遊ぶことがある.この世界でも動物は登場するがどうぶつの森とは違い,それは対等なコミュニケーションをとる住民ではなくペットや家畜,自然環境に原生する生物として描かれている.スローライフではなく弓矢を操り二足歩行する骸骨やゾンビとの戦いなどより殺伐としたサバイバルを楽しみたい人にはぜひこちらをお勧めしたい.
Youtubeニコニコ動画にごまんと動画が投稿されており,それをみているだけでも楽しい.どうぶつの森よりも遊び方は多様でほのぼの牧歌的スローライフができると思えば核技術を取り扱う科学者ごっこもできる.PVPで何十人ものプレイヤーと銃撃戦を繰り広げることもできる.
 
ではでは.